オンラインの中高年哲学対話(2022年)

 

                          本間 正己

                          (人生カフェ)

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はじめに

 コロナ禍の影響で、オンラインのイベントは盛んになった。哲学対話も然りである。

 しかしながら、中高年にとってはZoomなどのオンライン操作は苦手というイメージもある。中高年とオンラインの相性といったものはどのようなものだろうか?

 人生カフェ(中高年の人生を考える哲学カフェ)では、オフライン・リアルの時と同じような方法・素材を使って、オンラインの哲学対話を実施してきた。例えば、テーマから問い出しをして対話をしたり、本や映画を素材にして対話をしたりということである。

これらの実践を通して、オンラインとリアルを比較検討するという考察も意義があると思うが、これは既に何人かの方たちによって行われている。

 そこで、ここにおいては、オンラインだからこそ実施しやすかった新しい実践を2つ紹介し、その上で考察を進めていきたい。

 2つの実践とは、「女性のみの哲学対話」と「パーソナル哲学対話」である。

 

1.女性のみの哲学対話

「【女性編】ミドルエイジの哲学対話(オンライン)」という名称で、無料で実施したが、定員10名に対して毎回キャンセル待ちが出るほどに、予想以上に参加希望者が多かった。

 

(1) 概要

令和3年1月から12月まで、以下の2つの形態で、合計23回実施した。

① 第三水曜日午前中 当日参加者で対話のテーマ(問い)を決める。 11回実施。

② 第四木曜日午前中 事前にテーマ(問い)の提示あり。 12回実施

 

(2) テーマ・問い

当日に決めた問いとしては、「いつから大人になる?」「心の安定とは?」「自分を演じるのはなぜ?」「忠告はするべきだろうか?」「合わない人とは疎遠になってもいいのか?」「共有と孤独どちらが生きていくのに大切か?」「思春期とは?」「現実逃避とは?」「恥ずかしさとは?」「なぜ子どもを持つのか?」「なぜおじさんは横暴な態度が許されると思っているのか?」があった。

事前のテーマとしては、「この世に残したいもの」「家族の死」「女性の幸せ」「友だち」「贈与」「ゆるす」「心の地雷」「依存」「人生を味わう」「信頼」「ガチャ」「対等」があった。

 

(3) 特徴等

女性のみの参加ということで、対話の場としては、一定の安心感を生んでいた。また、平日の午前10時~12時30分に実施している哲学対話は他には少ないということもあって、参加機会を得られたことに感謝する人もいた。オンラインで実施したので、日本全国、海外からの参加があった。このオンラインということもさらなる安心感を与えたようである。

ファシリテーターのみが男性(筆者)ということが気になっていたが、参加者からは、「気持ち悪いということはない」「特に違和感はない」という感想をもらっている。

 

2.パーソナル哲学対話

令和2年春頃から1対1のパーソナル哲学対話(オンライン)を実施している。順次相手が増えてきて、現在は、40代~60代の男性2名、女性4名と行っている。毎月の人もいれば、2~4カ月に1回くらいの人もいる。

 

(1)概要

基本原則は以下の3つである。①対等に一緒に考える。②カウンセリングではない。③話された内容の秘密は守る。

事前準備としては、まずは、お互いに都合のよい開催日時(2時間くらい)を2週間くらい前には設定する。

テーマ設定は、2週間くらい前に、相手からテーマを提示してもらう。どんなテーマでもいい。小さいテーマでも、大きいテーマでもいい。具体的でも、抽象的でもいい。お互い共通に読んだ本や見た映画、TV、絵画などを素材にしてもいい。 

問い設定として、3日くらい前までには、相手からテーマに対する問い(疑問文)を3個くらい提出してもらう。私の方からの問いも1、2個提示する。

当日のスケジュールとしては大体以下のようである。①ウォーミングアップ(雑談等) ②哲学対話(出された問いについて順番に対話していく) ③休憩(途中1回) ④フィードバック、事務連絡

取り決めとして、料金は無料とし、原則として同じ人とは月1回より多くは行わない、としている。

 

(2)テーマ

実際に取り上げたテーマは以下のようなものである。

 「嫉妬」「書くことと話すこと」「努力」「神」「SDGs」「リズム」「変化」「家と個」「物事の終わらせ方」「人との別れ方」「ヒーロー/ヒロイン」「プロフェッショナル」「報われる」「残す」「才能」「自己肯定感」「家族」「欲」「美人」「離婚」「発達障害」「リアルとヴァーチャル」「ユーモア」「執着」「名前」「ワクワク」「優しさ」「結婚」「映画『パラサイト 半地下の家族』」等々。

 

(3)特徴等

 パーソナル哲学対話は一つのテーマについて、お互いの関心・興味に即して、深く追究していく醍醐味がある。自らが話す時間を長く取れることや、一人の相手の思考の流れに沿って集中して聞くことができるなどのメリットがある。

一方で、話が煮詰まってくると、広く他の人の意見も聞きたいという気持ちも生じる。

 このパーソナル哲学対話は、これまで広く一般に周知・募集をしたことはない。お互いの合意の下に、やる気・意欲を持ってスタートしている。また、オンラインゆえに、1対1ではあるが、一定の安心感がある。そのためか、現在まで、特にトラブルというものは起こっていない。

 

3.中高年にとってのオンライン哲学対話

中高年向けのオンライン哲学対話をこれまで実施してきて、気になることはいくつもあるが、以下に3点だけ記しておく。

 

(1)オンライン操作の困難さ

 中高年(特に高齢者)にとっては入り口の段階、すなわちオンラインを使い始めること自体が大きなハードルになっている。

 インターネット環境を整えて、例えばZoomのアプリを入れて、アクセスできるまでが一苦労であり、身近な人からの支援が必要となることがある。オンラインで繋がったとしても、基本的な音声やビデオが安定しない場合もある。Zoomの機能であるチャットやリアクションの操作を使いこなせず、ブレイクアウトにも乗り遅れてしまうということも起こる。

 これらに対して、戸惑っている本人は辛いし、他の参加者は待たされることにイライラすることもある。このような時に重要になってくるのは、対話の運営者やファシリテーターの対応である。

 ファシリテーターは、以上のようなことは中高年には当然起こりうることだという認識を基本に置き、冷静かつ丁寧に対応することである。 教えられる操作方法については、ゆっくりと説明し、相手ができるまで待つことも必要である。

しかしながら、これは他の参加者への配慮をしながらのことである。したがって、ある程度のところで、できないことと断念の決断をして、全体のプログラムを進行せざるをえないこともありうる。

いずれにせよ中高年にとっては、あまり難しい操作方法までは踏み込まない方が無難である。最低限、音声のみの対話ができればそれでいいともいえる。

 

(2)中高年にとってのメリット

 オンラインをある程度使いこなすことができるようになれば、中高年にとって、オンラインはいくつかメリットがある。

 それは、総括的にいえば、負担が少なく、気軽であるということである。

 まずは、経費の面では、最初のネット環境などの初期費用は掛かるにしても、その後の支出はあまりなく、特に、リアルの場合のように交通費が必要ないというのは大きい。

 また、身体的に移動しないで済むというのは中高年にとって、とても大きなメリットである。オンラインによって、遠方の人でも参加できるようになった。日本全国から、そして外国からの参加も増えている。

 高齢になってくると、足腰が弱まり、移動がだんだんと困難になってくる。そのような中で、このオンラインによる対話というのはひとつの恩寵ともいえる。高齢になっても人生を楽しめる方法・機会が増えたということである。

 だからこそ、私は、このオンラインの技能を後期高齢者になる前にある程度習得しておくことを人に強く勧めている。

 

(3)安全・安心ということ

このオンラインによって、安全性や安心感が高まったと感じている人は多い。

それはオンラインによって、リアルに比べて、身体性が弱まったからである。生身の身体がリアルに近くにあることによる緊張感や暴力性が少ないことからくる安全・安心である。

また、現今では、コロナの感染リスクがないということは大きな安心である。

これらは必ずしも中高年に限らずに言えることかもしれない。ただし、「女性だけの哲学対話」において私(男性)がファシリテーターを行った経験や、「パーソナル哲学対話」で1対1の対話を行った経験から強く感じたことなので、特に記しておきたい。

もちろん、リアルの方が親しみを感じられていいという人はいる。しかし、このオンラインならではの安全性を感じ取り、リアルでは躊躇していたが、オンラインになったことによって参加を決めた人が多いということもいえる。

 

4.オンラインでのこれからの試み

人はひとつのことを経験すると、そこに無いもの、足りないもの、あるいは反対のものを希求するらしい。

例えば、オンラインのみを経験しているとリアルを経験したくなる。しかし、リアルは従来の人生カフェそのものであり、コロナが収束していけば、また活発に行われるものである。

女性のみの哲学対話ばかりに参加していると、男性の考えも聞いてみたくなる。しかし、これもそもそも男女の区別をしないのが人生カフェの基本であり、これに参加すれば済むことである。

それに対して、以下の4つは従来のオンラインの人生カフェでは実施していないものであり、今後チャレンジしていきたいものである。人生カフェの基本パターンは確立してきているので、そのアイデンティティが崩れる心配はなく、従来のものを拡張したり、反対のものを取り入れたりする試みは可能だと思われる。

 

(1)多人数の哲学対話

 今までは、人生カフェは多くても定員は10名くらいで実施してきた。また、パーソナル哲学対話は1対1の対話である。

 これに対して、20名以上のオンラインの哲学対話を試みていきたい。

 参加者は発言しなくてもいい、聞くだけでもいい。顔出しをする・しないは本人の自由である。途中参加、途中退出も自由である。ただし、この場で話されたことは他の場では話さないという秘密保持・プライバシー保護は重要なルールとする。

 気軽に、覗いてみるだけのお試しの参加をしてもいいのではないかという発想である。多様な人たちが自由に出入りできる空間を作るというイメージである。

 テーマに対する問い出しは先着10名くらいにする。実際は、コアになる人たちの発言が多くなるかもしれない。しかし、周りにそれを聞いている人たちがいて、それらの人たちからの発言も自由にできるようにする。

 ブレイクアウトルームをどのように活用するかはひとつの課題である。対話をしやすくする雰囲気を作るために、また人間関係的な交流をするために、一定の時間ブレイクアウトルームを作る必要はあると思われる。

 

(2)深掘り・ガチ哲の哲学対話

 今までのオンラインの人生カフェにおいては、大体が哲学対話の「入門編」というような位置づけにしてきた。

場の安全・安心は当然のこととして、さらにアイスブレイクを時間かけてやるなど、和やかな雰囲気で、人間関係を深める交流もできるような工夫もしてきた。オンライン・サロンのような暖かい場を作り出し、それが哲学対話の入り口の機会になればいいという考えである。

それに対して、人生カフェのリアルの場では、「深掘り編」と言って、ガチ哲っぽいことを実施していた。自己紹介を省略し、ホワイトボードに書いていくことなども駆使して、テーマ・問いについての探究に向かう対話をひたすら行っていた。

このリアルでのガチ哲っぽいことをオンラインでも取り入れていきたいということである。

実際のプログラムにおいては、ガチ哲にふさわしいテーマを設定するとともに、自己紹介等を省略し、例えば、顔出しなし・音声のみ、オンライン上の共有画面を有効に使う、チャットを多用する、などを試みたいと考えている。

 

(3)若者とコラボした哲学対話

 人生カフェとしては、基本は中高年を対象にした哲学対話を実施してきた。ただし、本人の希望がある場合は、若者の参加を拒んでいたわけではなく、実際に高校生を含む多くの若者が参加してきた。

 人生カフェのアイデンティティが壊れるというような心配はいらないだろう。若者と交流できる哲学対話からは大いに刺激を得られると思う。

 例えば、大学などを基盤にした学生の哲学対話のグループがある。それらとのコラボというイメージである。

 この若者とのコラボというのは、リアルでもオンラインでも、どちらでも実施したいことである。コロナの状況などを見ながら、可能なところから行っていきたい。

 もちろん、中高年は若者に対して、説教しない、けなさない。逆に、羨ましがり過ぎない、ほめ過ぎないようにしたい。要は、対等に対話をしたいということである。

 

(4)死についての哲学対話

 リアルの人生カフェでも、死については何度か取り上げてきたテーマである。中高年にとっては身近なテーマであり、実存的かつ究極的なテーマとして、哲学的な対話をしたいことの代表でもある。

 死についての対話といっても、以下のように人称別にアプローチが異なる。一人称の死は「わたしの死」であり、自らの死に対する思いや受け止め方などが語られる。二人称の死は「近しい者の死」であり、愛する者の喪失などが語られる。三人称の死は「だれかの死」であり、ニュースなどで触れた第三者の死や死刑、臓器移植など社会的テーマが語られる。

 哲学対話としては、一人称の死から考え始めていくのが入りやすいかもしれない。二人称の死はグリーフケア的な要素が強くなる場合もある。また、三人称の死について対話をする際は、一定の知識・情報の共有化が必要な場合もある。

 以上のように、各人称的なアプローチの様相は異なっているが、対話をしていく中で、それらはお互いに無関係ではなく、繋がっていることも分かってくるだろう。

 さて、この死についての哲学対話をオンラインで展開していく意義は何だろうか?

それは、オンラインが有している特徴であるところの気軽さ、カジュアルさの活用である。中高年を始めとして、多くの人が死について、普段の生活の中で、もっと対話をしていいはずである。このカジュアルさについては、「デスカフェ」の実践・知見を大いに参考にしたい。そして、オンラインの哲学対話でも多彩に実験していきたい。

 

 以上4点のような試みは、人生カフェとしては新しいことだが、他の哲学対話の会では既に似たようなことを実施しているところがある。それらを参考にしながら計画を立てていきたい。

 

おわりに

今後は、実践的には、オンラインという手段によって、できることや有効と思われることをいろいろチャレンジしていきたい。人生カフェという場で、オンラインの哲学対話の可能性をさらに追求していきたい。

理論的な面では、オンラインとリアルとの比較対照をさらに整理していきたいと考えている。

これらのことについて、ご関心・ご興味のある方は、ぜひ下記の連絡先にお問い合わせください。

これからも皆様方のご理解とご支援・ご協力をよろしくお願いいたします。

 

 

【リンク先】

人生カフェ

 HP:https://jinseicafe.jimdofree.com/

  FB:https://www.facebook.com/cafejinsei/

 

【連絡先】

 

mgasami.honma@gmail.com  本間正己

 

 

 

人生カフェ200回とこれから(2021年)

―中高年の哲学対話―

 

                          本間 正己

    (人生カフェ・中高年哲学対話協会)

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はじめに

 人生カフェ(中高年の人生を考える哲学カフェ)は202012月で200回目を迎えた。20146月にスタートしたから、約6年半で達成したことになる。

 感慨深いものがある。

ここでこれまでの人生カフェの活動を簡単にまとめて、これからの実践の方向性を考えたい。また、人生カフェの実践などを素材にして、中高年の哲学対話を広い視野から探求していきたいが、その探求の方向性も併せて考えていきたい。

 

1.人生カフェ200

 6年半で200回であるから、平均すると月3回くらいのペースで実施してきたことになる。参加者は各回412人くらいであった。

 哲学対話を行うということがベースにあるわけだが、その素材になるもの、きっかけにするものによって、大まかに分類すると以下のようになる。200回の内に占める回数を( )内に記しておく。

(1)  テーマ(問い)から (142回)

(2)  本から       ( 28回)

(3)  映画から      ( 16回)

(4)  その他から     ( 14回)

(1)テーマ(問い)から

 しばしば取り上げられるテーマとしては、「幸福」、「愛」、「老い」「死」などが挙げられる。第1回目のテーマが「幸福」だったこともあって、発足周年記念として、毎年6月には「幸福」に関連したテーマを取り上げることにしている。

それ以外にも、「怒り」、「嫉妬」、「お金」、「美しさ」、「悪」、「働く」、「心」、「痛み」、「他人」、「悲しさ」、「顏」、「勇気」、「普通」、「運命」、「責任」、「優越感」、「プライド」、「ヒマ」、「感動」、「ゆるす」、「男社会」、「偶然」、「後悔」等々多彩である。

 時には対話そのものをメタ的に考える問い、「なぜ私たちは対話するのか?」、「対話が深まるとはどういうことか?」などもテーマになった。

 142回の内、事前にテーマが告知されていた場合は114回であり、当日に参加者でテーマを決めた場合(プレーンバニラ方式)は28回であった。

 後者のプレーンバニラ方式に含んでカウントしたものとして、「人生上の悩みをテーマとする」という形式のものがあり、これは5回ほど実施した。これはグループによる哲学相談的なものを目指したが、進行のやり方が難しかったと記憶している。

(2)本から

 人生論的な本をいくつか取り上げている。『君たちはどう生きるか』(吉野源三郎)、『嫌われる勇気』(岸見一郎)、『いい言葉は、いい人生をつくる』(斎藤茂太)、『仕事なんか生きがいにするな』(泉谷閑示)などがある。

 哲学的なものも多い。『14歳からの哲学』(池田晶子)、『はじめての哲学的思考』(苫野一徳)、『Jポップで考える哲学』(戸谷洋志)、『史上最強の哲学入門』(飲茶)、『いま世界の哲学者が考えていること』(岡本裕一朗)、『道徳の系譜学』(ニーチェ)などがある。

 文学作品としては、『紙の月』(角田光代)、『コンビニ人間』(村田沙耶香)などがある。

 夏目漱石は連続シリーズで取り上げた。『行人』、『こころ』、『硝子戸の中』、『道草』である。

(3)映画から

 人生カフェの100回目以降くらいから映画を素材に取り上げることが多くなった。選ばれた作品は多彩である。

 『万引き家族』、『ブレードランナー』、『ハンナ・アーレント』、『メッセージ』、『海を飛ぶ夢』、『グリーンブック』、『この世界の片隅に』、『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』、『パラサイト 半地下の家族』、『her 世界でひとつだけの彼女』、『プリズンサークル』、『ハッピーエンドの選び方』等々である。

(4)その他から

 美術館(岡本太郎)に行く、きのコさん(ヒューマン・ライブラリー)に来ていただいて「ポリアモリー(複数愛)」について対話するなどを実施した。

 それから毎年12月に来年または将来の夢や目標を語り合うために、「幸福シート」なるものをワークショップ的に作成している。

 

 以上を見ると、様々な切り口から、いろいろな手法を使って、アプローチしているのが分かる。まさに、ひとつの文科系サークル(文化部)の様相を呈している。

 なお、人生カフェもコロナ禍以来、zoomによるオンライン開催を実施しており、2020年には11回の実績がある。

 全200回の詳細な記録については、人生カフェのホームページをご覧ください。(「人生カフェ」で検索)

HPhttps://jinseicafe.jimdofree.com/

 

2.人生カフェの目的

 以上のような人生カフェの実績から、改めて人生カフェが目指している目的・趣旨は何かを確認しておきたい。

 一般の哲学カフェと同様に、対話を通して、思考が哲学的レベルまで深まり、新しい考え方や物の見方が得られ、新たな問いも生まれる。そのような過程を楽しむといった目的はベースとしてはある。

 しかしながら、そのベースの上に、人生カフェはさらなる目的を持っている。

(1)中高年の人生を考える

人生カフェは人生の後半について考える会である。人生の後半とは大体40歳以降をイメージしており、第二の人生とか、セカンドライフとか呼ばれる時期である。

ありていに言えば、後半の人生を「幸せ」に過ごしたいと願っている。それは、自由に、柔軟に生きるということにも繋がっている。イメージとしては、「しなやかに」生きるということである。(だから、人生カフェでの哲学対話では、疑いのための疑いに終始するような対話を目的とはしていない)。

付随的な目的としては、「時代・世代の違いを踏まえつつ、自らを取り巻く家庭・地域・社会・世界などについて考える」、「死を意識しながら、実存的な問題を考える」などがある。

これらの目的の実現のために、人生カフェでの哲学対話が何かしら役に立てればよいと思っている。

(2)生涯学習と哲学対話

 これらの目的を達成する哲学対話の素材として、人生カフェでは、テーマ(問い)、本、映画などを使っている。

 人生カフェをひとつの大人の学びの場と捉えるならば、それは生涯学習の活動の一環とも言える。テーマ、本、映画などは教科・教材に当たる。

 教科・教材はテーマ、本、映画以外にもいろいろ考えられる。様々に試みをしていいことである。もちろん、人生カフェ以外の場での展開も大いに考えられる。

 押さえておきたいのは、これらバラエティに富む可能性のある活動のベースに、哲学や哲学対話が存在していることの意義である。この哲学や哲学対話という土壌が豊かなほど、そこに育つ植物はたわわに実ると信じている。

 

3.これからの人生カフェ

これからの人生カフェの具体的な内容についてのアイデアをいくつか披露しておきたい。(既に試行しているものも含んでいる)。

(1)ユル哲とガチ哲

 ユル哲とは、ユルくやる哲学対話のことであり、何よりも自由で安全な場の確保に重点を置く。一方、ガチ哲とは、ガチにやる哲学対話のことであり、テーマ(問い)に対する真理の探究の方に重点を置く。

 この定義は本小論の便宜的なものであり、若干曖昧なものである。しかしながら、数多くある哲学カフェに実際に参加してみると、両者の違いがあることを印象として感じることは多い。

 いずれにせよ、人生カフェではこの両者の違いを意識して、それぞれの形式で、月1回ずつ、別の日に、同じテーマで開催することを試みている。

  ユル哲の場合(哲学対話・入門編)

 哲学対話・入門編と称して実施する場合は、以下のようなことに気を付けている。

 参加者同士のことを知りあうとか、場の雰囲気を和ませるために、自己紹介的なアイスブレイクの時間を多くとる。

 対話のルールについては、自由に何でも話していいこと、ただし人格を否定するような発言はしない安全な場であることなどを強調しつつ、一つ一つのルールを丁寧に説明する。

 問い出しもゆっくり行い、一人一人出された問いの背景や理由などを丹念に聞いていく。みんなで対話する問いは一つに絞ることを原則とするが、その問いをきっかけにその後自由に話せる雰囲気を作る。

 ファシリテーターがあまり介入することはしない。したがって、発言者が次の発言者を指名するというリレー方式を取ることもある。

 最後の振り返りの時間もしっかりと確保し、今日の対話の時間を静かに受け止めて終了できるようにする。

  ガチ哲の場合(哲学対話・深掘り編)

 哲学対話・深掘り編と称して実施する場合は、入門編とは様相が異なる。

 対話のルールとしては、「そもそもを考える」(本質性の追究)、「人それぞれはなし」(普遍性の追究)などを強調する。

 自己紹介、アイスブレイクなどは省略する。最初に、本日のテーマについて、その定義を参加者でざっくりと考える。次に、テーマについての問い出し、問い決めを行っていくが、参加者は安易な妥協はせずに、丹念に話し合いを行い、できるだけ納得のいく形で一つの問いを決めていく。

 オフラインの対話の場合は、ホワイトボードに要点、キーワードなどを記載しながら、随時対話の内容を確認しつつ進行していく。対話の後に、テーマについて、その定義を改めて考え直し、これによってより抽象的な議論を行う。最後に、各自の内省的な振り返りの時間は確保する。

 

 このようにユル哲とガチ哲を区別した哲学対話を行うことによって、まずは参加者が哲学対話に出会い、対話を楽しむことを実感できるとともに、さらに進んでいって中高年の生き方の課題に真剣に向き合い、深く考える姿勢も学べる機会になればと思っている。

(2)人文系サークルと生涯学習

 人生カフェの活動の基底に哲学することと、哲学対話することを据えることは基本である。

 しかしながら、人生カフェは生身の中高年の集まりであるゆえに、それだけでは率直なところ満足できない面はある。哲学だけでは、実際のところ疲れたり、息が詰まってしまう感覚もある。何かしらもっと多彩な活動をしたいし、哲学対話の土台の上にさらに学びたいこともある。

 実際に人生カフェでは、本を読んだり、映画を見たり、美術館に行ったり、講演を聞いたりといった活動を展開している。人生カフェ全体が中高年の人文系サークルのようであり、そこでは生涯学習が行われていると言ってもいい。そこでは人間的なふれあいやコミュニケーションがなされ、ひとつの学びの場(コミュニティ)となっている。

 これは子どもが学校でいくつかの教科を学び、多彩な学校行事を経験する中で、子ども同士や先生との交流が行われているのと同様である。

 人生カフェは今後も形式にこだわらず、様々な学びや遊びのイベントを考え、企画していきたいと思う。これらは人生カフェの活動内だけで収束する必要はなく、こちらから出かけて行ったり、他団体とコラボしたりすることも考えていきたいことである。

(3)小グループ~1対1の哲学対話

 人生カフェは、オフラインにおいても、オンラインにおいても410人くらいの少人数での実施を原則としてきた。これが人生カフェの対話のスタイルとして、気持ちのいい対話ができるサイズだという認識があるからである。(一方で、参加者が常連ばかりになりやすいという欠点があるということも気にはしている)。

 この小グループでの対話の深まりの良さが高じたというわけでもないが、ひとつの究極の形として11の哲学対話(パーソナル哲学対話)というものがある。これを人生カフェのスタッフ同士や一部の参加者とともに試みをしている。

 これはいわゆる哲学相談というものとは異なると考えている。相談する、相談されるという関係ではないし、そこに利用料金なるものは発生しない。上下関係のない対等の関係が基本である。

 哲学カフェというのは一般的にはグループで行う哲学対話だが、11の哲学対話は二人だけで行うものである。二人だけで行うと、グループの場合と比較して、各自の問題関心があまりブレたり、拡散したりせずに、深まっていく感は強い。(一方で、問いに対する幅広い、多角的な視点を持ちにくくなるという面もある)。

 この11の哲学対話は、信頼関係ができている気の合う同士で、やりたくなった時など適当な時期に行うと、とても楽しいし、一定の深まりも期待できる。今後、試行を続けていきたい分野である。

 

4.ミドルエイジの哲学対話

ミドルエイジ(中年)というのは、中高年の最初の段階であり、かつ人生後半の最初の段階とも言える。ミドルエイジとは大雑把にいえば、40代、50代のことである。(これも大まかにいえば、それに60代を加えると、中高年と呼ぶ。後期高齢者75歳くらいからは高齢者と呼んでいいだろう。)

このミドルエイジが、人生カフェの実践の経験などからすると、とても重要な時期だと断定できる。人生の後半を心身ともに豊かに生きるためには、何といっても最初の時期が肝心である。

このことをまずは女性の方で見てみよう。

(1)ミドルエイジの女性

 まずは、ミドルエイジの女性たちは女性間でも分断されていることを指摘したい。結婚しているか・していないか、子どもがいるか・いないか、そして仕事をしているか・していないか、によって、置かれている状況が分かれている。さらに子どもについては、子どもの数や年齢によっても異なってくるし、仕事も正規か・非正規かによってかなり違ってくる。(さらに更年期の心身の状態にも個人差が大きい)。

 同じ境遇同士でも、例えば専業主婦のママ同士の会話は、同情や共感ばかりになっていて、根元にある課題を認識したり、議論したりといったことは容易にはできない状況がある。このようにミドルエイジの女性たちは一見繋がっているように見えていても孤立していることが多い。

 一方で、ミドルエイジの女性たちは、それまで夫のため、子どものため、会社のために行動していたことから、少しずつ物理的にも精神的にも距離を置けるようになってくる時期である。すなわち、かつて青春期までは持っていた「自分のため」という軸を、異なった形で再び持ち始める段階でもある。置かれた境遇は分断されていても、自分のことを考え始めるということにおいては、ほとんどの女性が共通しているとも言える。

 また、ミドルエイジの女性は男性と比べても、他の世代と比べても、好奇心や向上欲が強く、学ぶ意欲も旺盛と言われている。それは上に述べたように、女性がそれまで置かれた境遇への反動という面もあるかもしれないが、何よりも人生後半へ向けての未来志向の強い意欲の現れと見ることができるだろう。

(2)ミドルエイジの哲学対話の意義

 女性ほどの分かりやすい分断はないかもしれないが、男性同士でも細かい分断は存在する。また、男性は妙なプライドがあるせいか、お互い同士繋がることが苦手で、孤立することも多い。(異性間の分断と繋がりについては微妙な要因も複雑に絡むので、別の機会に論ずるしかないだろう)。

 しかしながら、男性もミドルエイジになって、人生後半へ向けて、自分自身のことを考える必要性が増すことは女性と同様である。

 この自分のことを考えるというのは、下手をすると孤立化し、分断を深めることになってしまう危険性もある。したがって、そこには哲学的な深い洞察や、対話などによる他者の視点の取入れや他者との連帯が求められる。

 これらは年齢を重ねるほどに難しくなることである。人生後半のスタート時で、まだまだ頭・心・体が活発に働くミドルエイジの時に行うのがふさわしい。ミドルエイジは人生100年時代においては第二の誕生の時期である。第一の誕生の時期には「教育」が必要だったように、第二の誕生の時期には、自らが進んでの「学習」(生涯学習)が必要であろう。

 

 以上のようなことを踏まえて、2021年の私自身のテーマは「ミドルエイジのための哲学対話」にしている。実践的にも、メタ的にも深めたいテーマだと思っている。

 

おわりに

これまでの200回(6年半)の人生カフェに参加してくださった方々には感謝申し上げたい。また、人生カフェの運営を下支えしてきてくださったスタッフ、高橋あずささん、田中あけ美さんには特に感謝したい。

このテンポでいくと、人生カフェが300回を迎えるのは3年後のことである。これからの3年間に実践の多様性と深まりを引き続き追求したい。何よりも実践を積み重ねていくことを素直に、かつ気軽に楽しんでいきたい。

また、中高年の哲学対話についての理念的・メタ的な探求は中高年哲学対話協会(略称:中哲協)などの場も利用して行っていきたい。

ご関心・ご興味のある方は、ぜひ下記の連絡先にお問い合わせください。

これからも皆様方のご理解とご支援・ご協力をよろしくお願いいたします。

 

 

【リンク先】

人生カフェ

 HPhttps://jinseicafe.jimdofree.com/

  FBhttps://www.facebook.com/cafejinsei/

中高年哲学対話協会

 FB: https://www.facebook.com/tyutetukyo

 

【連絡先】

 

mgasami.honma@gmail.com  本間正己

中高年の哲学対話(2020年)

―悩みと可能性―

 

本間正己

(人生カフェ〈中高年の人生を考える哲学カフェ〉・中高年哲学対話協会)

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はじめに

 私は、ベースとしては、中高年の哲学対話の可能性を信じているし、その普及・発展を願っている。それは子どもの哲学を推進しようとしている人たちと同じ思いかもしれない。(私が高齢者であるという当事者性からすると異なるかもしれないが?)

 その願いには強いものがあるが、悩みもある。今まではあまり意識してこなかったが(楽天的だった?)、中高年に対するイメージは(自己イメージも、他者イメージも)、世間的には思いのほかよくないようである。そのあたりをまずは整理しないと、哲学対話どころではないように思ってきた。

 

1.中高年に対するマイナス・イメージ

 中高年に対するマイナス・イメージは様々な角度から描き出せるが、以下に哲学対話の場面を意識しながら、私なりに思いつくままをスケッチする。

(1)身体的側面

 薄毛、シワ、シミ、タルミなど容姿の衰えは見てすぐ分かる。背は曲がり、歩き方も遅くなる。視力は低下し、耳も遠くなる。足腰が痛い、心臓が悪いなどの病気も頻出してくる……。

見た目ということで言えば、身体を包む服装がオシャレでなくなる、場合によっては不潔というレッテルを張られる。

アンチ・エイジングが持てはやされている昨今、この身体的な老いに対する本人の引け目は大きい。しかしながら、哲学対話の場面においては、この身体的側面はそれほどは問題にされず、むしろ次節の知的・精神的側面の問題の方が表面化しやすい。

(2)知的・精神的側面

 主に、心構えや言語活動のことである。中高年というと、「説教おじさん」、「おしゃべりおばさん」というイメージが強い。

人の話を聞かない、自分の話ばかりしている、話が長い、自慢話が多い、人を批判したがる、自分の経験に基づかない専門用語を使いたがる、自分の考えに固執しがちである……。(いくらでも列挙できる?)

 哲学対話の場面において、偉い人風、悟った風、分かった風を装いたい、少なくともちゃんとした人間に見られたい、という気持ちが強過ぎる。それでいて、頭の回転が鈍くなってきているので、質問や応答がうまくできない、ピントがずれているなどの傾向も露呈する。

 一方で、「難しいことを考えてもどうにもならない」、「そんなことを考えて何になるの?」と揶揄的に言う中高年もいる。

(3)世代的・社会的側面

 今の日本の高齢者は世代的に得しているという感覚が若い世代にはありそうだ。高齢者は経済成長期に働いていたので、貯蓄もあり、年金もそれなりにもらえる。一方で、これからの高齢者は若者層に負担ばかり増やしていくというイメージである。年金・医療費などの財政的にも、福祉・介護の面でも。

若い世代の将来に明るい希望はあまりない。これは時代が異なるのだから仕方がないというのでは済まされない、世代間の感覚のギャップである。

生産性の高低で価値が測られがちな現代においては、会社でバリバリ働いている現役世代からすれば、責任感も切実性も乏しく気楽に過ごしている、一方で体力・知力も落ちて足手まといになっている高齢者世代に対して、苛立ちや不快感を持つのも当然のように思えてくる。

(4)実存的側面

 中高年が抱える哲学対話的なテーマは実存的なものが多い。自らの人生に残されている時間が少ないこともあって、例えば、「病」、「老」、「死」…といったものである。このようなテーマを受身的に選ばざるを得ないこと自体が暗いイメージである。

 しかしながら、実存的なテーマは必ずしも全てがマイナス・イメージとは言えない。哲学対話においては、ポジティブに捉え直せるテーマである。このあたりを手掛かりにして、次章では、中高年の哲学対話を積極的に見直していきたい。

 

 以上4側面をまとめてみると、中高年はたとえ表面上は傍若無人のように振舞っていたとしても、実は心の奥底において、「老い」に対する悲しみとコンプレックスを何かしら持っているということである。

老いというのは動物である人間にとっては自然なことではあるが、それを受け入れたり、その代替を考えたり、別の資質を伸ばしたりといったことはそれなりに難しい。しかし、それは不可能ではないし、哲学対話はその実現のための一つの方法になりうる。このあたりのことも次章で考えていきたい。

 

2.中高年の哲学対話の可能性

前章の「悩み」から反転して、これから「可能性」について述べていくのだが、説明の都合上、まずは「中高年」の可能性と、「哲学対話」の可能性について簡単な記述を行い、その上で私の考える「中高年の哲学対話」の可能性を述べていきたい。

(1)中高年の可能性

古代ローマのキケロは、老年が惨めだと思われる4つの理由、(ⅰ)公の仕事や活動からのリタイア、(ⅱ)肉体の衰退、(ⅲ)快楽の喪失、(ⅳ)死の近接、を挙げ、それらを裏返してポジティブな老年を描き出した。

以降、高齢者を持ち上げる言説は数多生まれ、それは高齢者を勇気づける上で意義のあるものではあった。しかし、若干負け惜しみ的な要素も含むそれらの言説をここで列挙するつもりはない。

現代においては、高齢者自身が一定の自尊心を持つとともに、他者から一定の尊重を得ることは、当然に基本に据えられるべきことである。それは子どもや若者などの世代も含めて、どの世代も尊重されるべき存在であるということと同じである。また、どのような障碍者でも、マイノリティでも尊重されるべき存在であるということとも同じである。(このように理念的なことはしっかりと押さえた上で、実際はそれほど尊重されていない面もあるという事実も認識しておきたい。)

 このような状況の中で、なぜ私が「高齢者」という表現ではなく、「中高年」という言葉を使っているか?

 ここでいう中高年とは、仕事上ではもう出世を望めない定年に近い時期、子育てについては一応一段落した時期、すなわち人生前半での一定の役割を終えた時期以降を指している。実年齢でいえば50歳くらい以降のことであり、いわば第二の人生を歩み始めている年代である。心身の上ではまだ元気な人が多いと思われるが、人生の後半には入っている。

 この人生の後半は、前半の人生の果実を活かしていこうとする人もいれば、前半にやり残したことを実行しようということで前半とは全く異なる人生を歩む人もいる。中高年の入り口あたりでは、それらの選択に思案する時期であり、高齢者の時期に幸せに生きられるように準備する時期でもある。そこにこそ、中高年の大いなる可能性が潜んでいる。 

(2)哲学対話の可能性

 中高年からの観点も若干加味しながら述べていく。

  新しく手軽な方法

 哲学対話は簡単なルールに則れば、安全で自由に行える。それは小グループでも気軽にできる。それでいて、哲学的なテーマ・内容を深めていくことができる可能性がある。

哲学対話は、サッカー、野球と同じように、ルールに基づいて安心して楽しめるゲームだと思う。言語を使った「言語ゲーム」の一種である。   

中高年にとってはスマホと同じである。中高年の若い頃にはなかったが、今は便利で効果的な手段としてあるのだから、使えるなら使わないのはもったいない。(「簡単スマホ」でもいいじゃん!)

  効用と楽しみ

 哲学対話は、子どもの哲学でも言われているように、(ⅰ)思考力(批判力)、(ⅱ)共感力(ケア力)、(ⅲ)創造力、などが養われるという効用がある。

 それとともに、哲学対話に参加することによって、次のような新しい経験をする楽しみがある。(ⅰ)新しい気づきを得る。(ⅱ)新しい問いが生まれる。(ⅲ)新しい人との関係が築ける。(新しい出会いが生まれる)。

 総じていえば、そこに「新しい自由」を感じ取ることができる。これは大きな楽しみである。

  学びの基礎

 子どもの哲学は教育の一環と考えられることが多い。道徳教育の一つの手法として使われることもあれば、各教科の学習の始めと終わりに位置づけられることもある。そこには、学びにおいては「問う」という動機づけがとても重要だという考えがあるように思われる。

 それは、大人、中高年の場合も同様である。学び(「生涯学習」と言ってもいい)の基底部分に、もっと哲学対話を意識し、取り入れていっていいと思う。内実のある教養(リベラルアーツ)を身に付けるためには、基礎に哲学があった方がいいということである。

 この哲学対話と生涯学習を適切に結び付け、デザイン化するのがこらからの一つの大きな課題だと考える。中高年においては、できるだけ早い時期に哲学対話について学び、経験してほしいと思う。

(3)中高年の哲学対話の可能性

 中高年の哲学対話の特徴と可能性を、主に子どもの哲学との比較から、私なりに3点だけ指摘しておきたい。

  実存的な問い

 実存的な問いの例としては、仏教でいうところの「生老病死」に関する問いや、「自分」「他者」「存在」などの問いが挙げられる。この種の問いは、多くの人の人生の晩年に現れる恵みの問いであり、受け身的で暗い悩みというようなものではない。人生の後半を歩み、死が近づいてきている中高年は、このような問いをストレートに繰り出すことができる。

 同じような問いは子どもも平気で口にする。「死んだらどうなるの?」という問いを子どもから聞かれた親は数多くいるだろう。また、若者はこれからの人生について悩み、考え、このような実存的な問いを立てることがある。

 実存的な問いを立てることが少ないのは、働いている一般の成人である。仕事や生活に追われ、実利的な問いの方に傾いてしまう。関心事が金、地位、業績、世間体などに片寄っている。

 中高年は実際生活上の問いからある程度解放され、再び子どもの時のように実存的な素朴な問いを発していくことができるようになるのだが、それは子ども時代のものとはやはり異なる。長い期間の人生経験を積んできていることと、死が近くに迫ってきているという感覚、この2つの違いは大きい。

 だから、中高年の実存的な問いに対する探究には厚みと深みが期待できる。生老病死などに対して、単にネガティブに捉えるのではない、別の見方ができるはずである。

  経験の多さ

 中高年と子ども・若者をいろいろな角度から比較・分析できるとは思うが、端的に分かりやすく言えるのは、生きてきた時間の長さの違いである。それは中高年の経験してきた時間が子ども・若者より長いという、シンプルかつ強力な事実である。(もちろん、その経験の中身は玉石混交であり、長さだけでその経験の価値、充実度、有用度などを測れるわけでないのは当然であるが。)

 実際の哲学対話では、各自の経験から自分の考えを述べることが推奨される。それは対話が空理空論にならず、地に足がついた形で物事の本質に迫っていくための重要なルールと思われる。

 しかし、経験(事例)を話す際に、中高年は話が長くなりがちであり、その話も対話のテーマからかなりズレている場合がある。これは中高年が玉も石もたくさんの経験を頭に詰め込んでいるからである。多くの理屈と感情を過去に経験してきているわけだから、うまく使えば論理力や共感力を生かせるのだが、実際はそうは簡単にはできない。

 中高年はまずはごちゃごちゃしている思考と感情のスモールダウン化、クールダウン化を心掛ける必要がありそうである。そして、対話において事例を出す場合は、たくさんある素材の中から、テーマに即した本質的(できるだけ的を射ている)かつ具体的なものを抽出し、簡潔に表現することが大切である。これには多少訓練がいるが、中高年が為しうる、やりがいのある課題である。(なぜなら、素材は豊富に持っているのだから。)

  言語力と人間関係力

 子どもとの比較で言えると思われるのが、中高年は言語力と人間関係力に長けている人が多いということである。子ども時代から育んできた思考力、共感力、創造力の発展形とも言えるものである。

これは哲学対話を活性化させるのに役立っている面がある。参加者が言語の力を縦横に使って論を進めたり、人間関係力を上手に使って共感・ケアの場を作り出したりしている。

しかし、これは、前項の「経験」と同様に、対話の場面でマイナスに働くことも往々にしてある。説教だけは得意だったり、おしゃべりが長かったり、ベタな人間関係を強要したりといったことなども時には見られる。

これも前項と同様に、哲学対話においては、中高年が持っている言語力と人間関係力のよい部分は活用し、よくない部分は抑えるという意識を持つことが大切である。これも適切な取捨選択の経験を積んでいけば、やがてできるようになっていく能力だと思われる。

 

以上、この節をまとめると、中高年は、いい問いと対話を行うための「条件」と「素材」と「能力」をたくさん持っているということである。しかしながら、それらが反対方向に出る危険性も持っているという点では両刃の剣である。うまく使いこなしていく努力と工夫は必要なようである。そうすれば、そこに大いなる可能性は見出せると思う。

 

3.よくある質問に答える

この後は中高年の哲学対話に対してよくある質問に3点だけ答えていく。

(1)ファシリテーター、参加者は人生の達人か?

ファシリテーターは悟った人、人生の達人、高潔な人格者だろうと思い、ファシリテーターに導いてもらいたい、救ってほしいと願うのは誤解から生じることである。また、哲学対話の参加者たちは優秀な人たちばかりだろうから、私は付いていけないので参加できないというのも誤解である。

ファシリテーターは、お坊さんや神父・牧師さんのような聖職者ではない。また、悩みの相談を受けるカウンセラーでもない。さらに(哲学対話といっても)、優れた哲学者でもない。

ファシリテーターは、安全で自由な、問い・考え・聞き・話す場を提供し、参加者とともに、ただひたすらに一緒に考え続ける人である。問いを出す方法、考える方法をほんの少しだけは知っている人である。単に参加者と哲学対話の最初から最後まで一緒にいてくれる人と言ってもいいかもしれない。

参加者も自分の経験から、自分の頭で取りあえずは考えていきたい人である。みんなと一緒に考えていきたい人であり、特に優れた結論を持っているというわけではない。確固とした結論がないままでも、問いを続けていくという好奇心を持っている人である。その楽しみを感じることができる人である。

であるから、立派な哲学を教えてもらうのではなく、みんなと一緒に自ら問い、考えたい人はぜひ気軽に哲学対話に参加してほしい。

(2)なぜ中高年を中心にした哲学対話を行うのか?

 中高年だけを囲い込む意図は全くない。私が主宰する「人生カフェ」(中高年の人生を考える哲学カフェ)は若い人たちの参加はOKだし、実際に参加している若者はいる。また、人生カフェに参加している中高年には若い人たちが開催している哲学対話の会を紹介したりしている。

 このように会をクローズドにはしていないにしても、中高年の参加が中心になる哲学対話を実施する意味合いは何か? 一言でいえば、それは中高年が持っているコンプレックスに対する安全性の確保である。

 若い人たちに遠慮する、あるいは気おくれする中高年はいる。また、若い人たちに、人生の先輩として何か偉いことを言わないといけないとプレッシャーを感じている人もいる。中高年はまだまだ哲学対話の経験が少なく、哲学対話に慣れていない。これらの人たちに対する一定の配慮は必要だと考えている。

 一方で、中高年中心の会では、中高年が陥りがちな欠点(説教好き、おしゃべり好きなど)をお互いに指摘しやすいという利点もある。若い人の哲学対話の会では、若者の方が中高年に遠慮して、注意ができないというケースがあるからである。

(3)中高年の哲学対話はなぜ広まらないのか?

 第一に、中高年の哲学対話の存在そのものがあまり知られていないから。世間一般の人たちはもちろん、中高年自身が知らないというのが大半であろう。

 第二に、中高年はたとえ名称は知っていたとしても、哲学対話を今までに経験していないか、慣れていないから。子どもや若者と異なって、中高年は学校で哲学対話を経験した人はまずいないだろう。スマホと同じように、中高年はその良さを体験していないのである。

 第三に、哲学対話にふさわしくない中高年の性質(欠点)が前面に出てしまうから。これが最も大きく、解決が難しい理由かもしれないという思いで、私は今回のこの文章を書いている。

 以上の各原因についてはやがて時が経てば解消するだろうという楽観的な見方もあるとは思うが、さらに一歩踏み込んで積極的に中高年の哲学対話を広めるためにはどうしたらいいか? いろいろな方策を検討中だが、ここでは子どもの哲学から類推して、中高年の哲学対話を生涯学習(教育)の基礎として位置付けるという方針を打ち出すことを、ひとつの提案として示すだけに留める。

 

おわりに

中高年の哲学対話に関する悩みをできるだけ解消し、その可能性の方を追求していきたいというのが、この文章の趣旨である。そして、その追求は継続的に行われるのが理想である。

それで、最後に「番宣」(番組宣伝)のようだが、以下お知らせする。

「中高年哲学対話協会」(略称「中哲協」)が20204月に発足する。

 中哲協では、中高年の哲学対話について関心のある人たちによる全国的なネットワークを考えている。関係者の人のつながりを重視し、個別の哲学対話を実践するものではない。(参加費無料)

中高年の哲学対話に関して、①情報交換・交流、②普及・振興、③運営相談、④進行役の養成・派遣、⑤研究、⑥その他資する活動、を目的にする。

ご関心・ご興味のある方は、ぜひ下記の連絡先にお問い合わせください。

これからも皆様方のご理解とご協力をよろしくお願いいたします。

 

【連絡先】

 

mgasami.honma@gmail.com  本間正己(中高年哲学対話協会)

 

 

中高年の哲学対話(2019年)

ー 人生カフェの実践を通して考えたこと ー

本間正己(人生カフェ)

 

はじめに

 中高年の哲学対話を普及・発展させたいと考えている。

 なぜ、そのような気持ちになっているかと問われれば、愛好するスポーツ(例えば日本ではあまり知られていない「カバディ」)を普及・発展させたい人たちの気持ちと同じだと答えたい。あまりお金がかからず、みんなと一緒にでき、そして何よりも楽しいということを私自身が実感したので、他の人たちにも味わってほしいからである。

 ところで、ここで言う中高年とは、50代・60代くらいの男女で、どちらかというと元気な中高年である。職場ではもう昇進が望めず、家庭では子育てが終わっている、人生の後半、いわば第二の人生が始まっている、といったイメージである。

 このような中高年が日本では1千万人以上はいるであろう。これだけの人数がいるし、人生の意味や死などの実存的な課題も意識する中高年にとって、哲学的な営みはとても需要がありそうだが、実際は哲学対話に対する中高年の関心は低い。これはなぜだろう?

 哲学対話を今の中高年が若い頃にほとんど体験していないということも一因であろう。これ以外にも原因はいろいろ考えられるが、今回は教育・学習という観点からこの問題を考えていきたい。

1 生涯学習と中高年の哲学対話

 子どもの哲学対話が盛んに行われ、注目されている。これが哲学を矮小化したかどうかは分からないが、これらの実践を子どもへの教育の一環として位置づけたことによって、隆盛したことは否めない。国家制度である学校教育という枠組みの中で、プロ集団である教師に支えられているのだから、一定量の実践が行われているのは必然とも言える。

 これになぞらえれば、普及・発展のために、中高年の哲学対話を生涯学習体系の中に積極的に位置づける試みは、あながち間違った方向ではない。

 「(表1)子ども・成人・高齢者の学習」を見ていただきたい。これは生涯学習の教科書などに書かれているものに、筆者が元気な高齢者の部分を付加し、全体的に加除整理して作成したものである。子ども教育学pedagogy(ペタゴジー)、成人教育学andragogy(アンドラゴジー)、高齢者教育学gerogogy(ジェロゴジー)の3類型に合わせている。

 表の内容をざっと要約すると、子どもは生物的発達に伴う課題に対する学習が多い。まずは基礎・基本の習得のため、教材・教科の学習が中心である。学習者と教育者の関係はほぼ固定化されており、学習内容・方法等について学習者は教育者に依存的である。

 成人は職場、家庭などでの社会的役割から生ずる課題に対する学習が多い。課題解決型の学習が中心で、その際に学習者の経験は貴重な学習資源となる。学習者と教育者の関係は流動的、多様であり、学習内容・方法等については学習者自身の決定性が大きい。

 高齢者は役割意識が希薄になり、内発的な好みからの学習が多くなる。学習者と教育者は臨機応変、自由に入れ替わり、学習内容・方法等は自らの限界を意識しつつ自己決定する。

 以上の3分類については、あまりにも類型的だなどの批判もあるが、哲学対話を考えていく上での一つの参考にはなる。例えば、(表1)の子どもの教育・学習観は旧来のものであり、これを打ち破り、成人の学習内容・方法等も柔軟に取り入れながら実践しているのが、「子ども哲学対話」だという言い方もできる。

 さて、中高年の哲学対話である。(表1)を一見して、成人から高齢者へかけての学習観と相性がいいと思っている。哲学を矮小化しているなどと言わずに、積極的かつ具体的に生涯学習への位置づけを吟味していくのがいい。


 一方で、日本の生涯学習は趣味、教養、生きがいレベルにとどまっているという批判もある。これに対しては、学習好きの国民性は大いに結構だし、趣味、教養、生きがいそのものをそれほど軽んずるべきでないというのが筆者の立場である。

 いずれにせよ、中高年の哲学対話と生涯学習は今後実践的に捉えていきたい課題である。実を言うと、以下に紹介するところの、筆者が実践してきた「人生カフェ」でも生涯学習のことを強く意識しだしたのは最近のことである。

2 人生カフェ(中高年の人生を考える哲学カフェ)

 人生カフェは2014年(平成26年)628日に発足し、100回以上開催してきた。取り上げたテーマの例は(表2)のとおりであり、多彩である。

 人生カフェのチラシに沿って紹介すると、まずは呼び掛け文である。「人生カフェへようこそ!今までの人生を振り返り、これからの人生をしなやかに生きるために、主に中高年の人生について考える哲学カフェ(哲学対話イベント)です。一人で考えるより、みんなで考える方が未来へ向けて何かしらのヒントが得られると思います。私たちと一緒に人生の謎について考えてみませんか。」 人生カフェの特徴として、自らの「問い」や各自の「経験」「感情」を大切にすると謳っている。

 月24回開催し、金曜日または土曜日、午後の時間帯だけでなく、午前や夜間に開催することもある。東京都新宿区の高田馬場駅周辺の公共施設を利用することが多い。

 原則として12名を定員としているが、実際の参加者は612名くらいで推移している。中高年が主なのは当然だが、若い方の参加も歓迎とPRしており、実際に10代~30代の参加もある。半数くらいは常連だが、ホームページやフェイスブックを見て新たに参加する人もいる。

 オーソドックスな哲学カフェの形式で実施することが基本である。


さらに、最近では本や映画を素材にして対話することも定着している。素材がある場合でも、その解釈や鑑賞というだけでなく、そこから問いをみんなで抽出し、その問いについて自由に対話している。

 人生カフェのルールは、ⅰ人の話をよく聞く(人の話を途中でさえぎらない)、ⅱ人の悪口を言わない(人格攻撃をしない)、ⅲ誰か偉い人の考えの紹介ではない(自分の考えを述べる)、などである。

さらにミニ・ルールとして「5分以上の話を続けている場合、ファシリテーターがストップをかけることがある」というのがある。これは厳密には適用しない、やんわりとしたルールであるが、中高年が多い人生カフェならではのルールともいえる。

 参加者へのおススメの心構えとして、次の4点を挙げている。

    他の人の発言に対して、時には応答(質問等)をしてみましょう。

    お互いの考えの違いを尊重しながら、みんなが納得する考えを模索しましょう。

    自分の問いや考えが変わっていくことを楽しみましょう。

    結論を出す場ではありません。モヤモヤした感じが後に残るでしょう。そのモヤモヤをいろいろ考えるきっかけにしましょう。

3 中高年の哲学対話の特徴

 ことさら他の世代との違いを強調するつもりはない。哲学対話はどの世代でも可能であり、むしろ多様な世代が集まる哲学対話の方が面白いという人も多い。だから、ここでは筆者が感じた特徴を2点だけ記述する。

 ひとつは中高年が一般的に抱える課題のことである。中高年は定年後や子育て後は、仕事や家庭に関する役割は確かに低下するが、全くなくなるわけではない。定年後も収入と仕事のことは気になるし、いくつになっても子どもの問題はなくならない。また、多くの中高年が抱えることとして、介護の問題があり、これは今後ますます中高年共通の課題となっていくだろう。

 そして、中高年になると、人生全体の問題=生老病死の問題がクローズアップされてくる。社会的役割が少なくなってきても、この問題は残る。特に、「老・病・死」の問題は中高年には当事者として重要な問題であり、この時期にこれらの問題を考えないのはもったいない。これらの問題を哲学対話の場で、みんなとともに考えることを通して、中高年に新たな生きる力が生まれれば幸いである。

 二つ目は、中高年の性質、特に対話の際の傾向のことである。これについては、とりあえず(表3)「中高年の対話で陥りがちな傾向と対策」をまとめてみた。中高年には「説教おじさん」、「おしゃべりおばさん」と揶揄されるように、対話がうまくできない人たちがいる。「対話の場から摘み出したくなる連中」と指摘された文章を読んだことがある。

 しかし、筆者はこれらを中高年の致命的な欠陥とは考えていない。ちょっと注意し合えば、十分に改善できることである。むしろ、中高年のいい面に着目した方がいい。例えば、中高年は経験が豊富であるので、事例(エピソード)を交えた具体的な話ができる。また、人生全体に対して、人生後半期の立場から、余裕を持って眺めた発言ができるなどである。

 そして、何よりも中高年は本音として、同世代とも、異世代とも、対話をしたがっているということである。それが、尻込みしたり、遠慮したり、面倒くさがったり、従来の生き方に拘泥したりして、対話の場に顔を出して来ないのはいかにも残念である。

 (ここで付記しておきたいのは、筆者は中高年に限定する哲学対話を提唱しているわけではないということである。多世代にわたる人が参加する哲学対話の面白さや意義は十分に承知している。ただし、若い人たちが中心の対話の会に参加することを遠慮したり、躊躇したりするナイーブな中高年が一定数いることを鑑みると、中高年が多数を占める哲学対話の場が存在することは哲学対話への入り口として意義があると考えている。)


4 中高年の哲学対話の方法

 中高年の哲学対話に固有な方法というのはあるのか? これに対しては、人生カフェの実例で示したように、ベースは一般の哲学対話と同様であり、あとは若干のアレンジをすればいいと答えたい。

そのアレンジの際にポイントとなるのは「シンプル」である。中高年にとってはシンプルな哲学対話が参加しやすい。この考え方に基づいて、私が実践している具体例を、いくつか列挙してみる。

    複雑で、凝ったワークショップは必要ない。

 複雑で、凝ったワークショップには中高年の参加者もファシリテーターも付いていくことができない。中高年は一定の言語能力を身に付けている人が多いので、話す、聞くだけのシンプルな方法だけでも短時間で対話が深まっていくことがある。

    参加者各自に紙に書いてもらう。

 問い、意見、感想などを紙に書いてもらった上で、その紙を全員に見せながら発言してもらう機会を作る。これも中高年が持つ一定の書く力を利用したものである。話しているだけだと、中高年の場合、齟齬が多くなり、ストレスが溜まることがある。書くことによって、本人の考えもクリアになるし、参加者たちにも伝わりやすくなる。黒板に書くよりも、本人が自分で紙に書く方が主体的な感覚は強まる。

    チェックイン、チェックアウトを大事にする。

 チェックインとは、自己紹介や簡単なアイスブレイクといった最初の導入のことである。チェックアウトとは、最後に、その日の哲学対話で気づいたこと、新たに生じた問い、感想などを述べることである。参加者全員が話すと時間はかかるが、丁寧に行う。中高年は現実の日常生活と哲学対話のギャップが大きい人が多い。だから、この入口と出口のセッションを丹念に行うと、間に挟まれたところの哲学対話がメリハリを持って体験しやすくなる。日常の役割から距離を置き、一定の抽象的な話ができる場になるのである。

    長話や論争に注意する。

参加者の長話や論争は、(表3)の中高年が陥りやすい傾向の中で示したように、中高年の哲学対話ではしばしば見られる光景である。これらは哲学対話を活気づかせる場合もあるが、他の参加者たちの発言の機会を奪ってしまったり、安心して対話に参加することができなくなったりする。これらに対応するためには哲学対話のルールの適切な適用が重要である。ファシリテーターはこの点については柔軟に、かつ、しっかりと介入していい。

おわりに

 中高年の哲学対話を普及・発展させていきたい。そのためには中高年の哲学対話を生涯学習の体系の中に位置づけ、中高年の特徴を生かしながら、シンプルな方法を用いて、実践していきたい。

 人生カフェの活動は今後も続けていくつもりである。また、他の場所・機会において、中高年の哲学対話を実践したい方に対しては、お手伝いできることがあればしていきたい。

 今回のこの文章で、多少とも中高年の哲学対話についてのイメージを持っていただけたならば幸いです。今後ともご理解・ご支援・ご協力をお願いいたします。

 

 

人生カフェ

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参考文献

森玲奈編著(2017)『「ラーニングフルエイジング」とは何か』ミネルヴァ書房

堀薫夫編著(2012)『教育老年学と高齢者学習』学文社

梶谷真司(2018)『考えるとはどういうことか』幻冬舎新書

 

カフェフィロ編(2014)『哲学カフェのつくりかた』大阪大学出版会